残念さんの墓

もし口惜しいことがあれば自分に参れば一つだけかなえてやろう

尼崎市の杭瀬墓地にはそう書き置いて自ら命を絶った兵士が眠るお墓があります。

「残念さん」と呼ばれるこのお墓の主は山本文之助鑑光(やまもとぶんのすけかねみつ)という人物で、29歳でその生涯を終えました。

文之助は1864年7月19日に起きた長州軍と会津・薩摩藩などの連合軍との大規模な軍事衝突、「禁門の変」に従軍した長州軍の兵士でした。

この衝突は長州軍の敗北という形でわずか一日で終了し、長州軍は西へと敗走しますが、文之助はその途中、尼崎市大物の北ノ口御門で捕らえられてしまいます。

詰め所で取り調べを受けましたが黙秘を続け、留置されたその日のうちに自ら命を絶ちました。

その後尼崎藩は杭瀬の墓地に文之助の墓を建てました。

命を絶つ間際、文之助は「残念で口惜しい(くやしい)、もし口惜しいことがあれば自分に参れば一つだけかなえてやろう」という書置きを残していたとあります。

この話を聞いた人がお参りに訪れ、口惜しいと願った所、病気が治ったという噂が伝え広がりました。

そして噂は瞬く間に広がり、大勢の人が大坂から文之助の墓参りに訪れるようになり、これ以後文之助の墓へのお参りが大流行しました。

その流行り様は大坂町奉行所が墓参りの一切を禁止したほどでした。

この禁圧の中、いつしか文之助は人びとから残念様と呼ばれるようになりました。

現在でも残念さんに口惜しい事をお願いすればご利益があるとされています。

特に歯の痛みが治ると言われているそうで、また他の病気や、勉強にもご利益があるとされています。

文之助のお墓の横にある立て看板には、文之助の事や残念さんと呼ばれるようになった経緯が詳しく記されています。

以下に書いてあった文章を起こしましたので、ご興味のある方は一読ください。

この墓は、長州藩兵山本文之助の墓です。

文之助は、元治元年(1864)の蛤御門の変の時、西国街道を撮って帰国の途中、大物の北口御門の辺りで捕らえられてしまいました。

文之助は、捕らえられたその日のうちに留置された会所(役所の詰め所)のなかで自殺してしまいました。

時に29歳で、後日尼崎藩からの報告によれば、彼の所持品の袋に名が記されていましたので、姓名が分かったということです。

文之助は黙否して名乗りませんでしたが、彼は長州来栖原衛組に属する装条銃中間(足軽の身分)文左衛門の子と言うことが記録されています。

大坂本町の呉服屋扇谷真助が手代に書かせた日誌によると、文之助の書置きには、「残念で口惜しい(くやしい)、もし口惜しいことがあれば自分に参れば一つだけ願いをかなえてやろう」と書かれていたとあります。

噂を伝え聞いたおびただしい人びとが文之助の墓へ参詣しました。

これ以後、願い参りが大流行し、大坂町奉行所は一切これを禁止しようとしました。

この禁圧の中で彼の墓は人びとから「残念さん」と呼ばれるようになり、世人の長州藩に対する同情も高まっていきました。

せっかくなのでHEDGE武庫之荘店として文之助さんにお願いをしてきました。

HEDGE武庫之荘店はオリジナルブランドの革製品の販売及びオーダーメイドのお店なので、これから先も末永く多くのお客様に当店の革製品が多くの方に愛されるようお願いしました。

この記事を見た方が当店にご興味を持っていただけたならそれはもう残念さんのご利益があったと言っても過言ではありません。

もし当店にご興味を持っていただけましたら、まずはお気軽にご来店くださいませ。

ご来店心よりお待ちしております。

残念さんの墓からHEDGE武庫之荘店までのルートはこちらをご覧ください。

店舗前には駐車場もございますので、お車でお越しいただくことも可能でございます。